山田寅次郎氏は明治25年に起きたエルトゥールル号遭難事件をきっかけにトルコのイスタンブールへ足を運び日本で募った義捐金を届けた最もトルコと日本の交流を深い関係に築いた人物です。
当記事では山田寅次郎氏にスポットを当ててご紹介していきます。
山田寅次郎のプロフィール イスタンブールで偉業!
この事件に深く感銘を受けた山田寅次郎という実業家は、独自で民間より義捐金を集め、一人オスマン帝国首都イスタンブールへ
遠く極東の、ただの民間人が義捐金を持ってきた事で、熱烈歓迎を受け皇帝の要請で現地に残り、貿易会社「中村商店」を興し、正式な国交の無い2国の交流に尽力したそうです pic.twitter.com/AZIvdLEyyW
— キール・インペリアル@ロイヤルの本場 (@amberkiel1) September 15, 2022
山田寅次郎氏とはどのような人物か以下より見ていきましょう!
山田寅次郎とトルコのイスタンブールとの関わり
1890年(明治23年)に日本へ訪日から帰国途中にオスマン帝国軍艦のエルトゥールル号が遭難事故を起こしてしまいました。当時、日本では衝撃が走り、山田寅次郎氏は行動に移しました。
その行動とは「義捐金」を民間から集める事でした。
山田寅次郎氏は犠牲者の遺族に寄付をすることを思いたち募金運動を起こしたり、日本を走り回りながら演説会を行い2年という時間をかけて5,000円の寄付を集めました。
※現在の価値で言うと1億円相当
山田寅次郎氏は当初、集めた義捐金をトルコへ送金する予定でありましたが青木周蔵(外務大臣)と相談した結果、トルコへ直接持参することを勧められました。
山田寅次郎氏は1892年(明治25年)の4月に直接オスマン帝国の首都、イスタンブールへ足を運びオスマン帝国外相を訪ねて義捐金を届けたとされています。
この山田寅次郎氏の行動が後にイスタンブールの人々に知れ渡ると熱烈な歓迎を受け山田寅次郎氏は皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会を頂くとい偉業を遂げました。
山田寅次郎 海外の反応は?
山田寅次郎氏はイスタンブールに足を運んでからしばらくの間滞在されていました。アブデュルハミト2世から日本語の教育や東洋の美術品についてなど海外から日本への興味を持たれていることに愛着を覚えイスタンブールで事業を起こすと決意されたと言われています。
一度帰国し再度イスタンブールに足を運んだ山田寅次郎氏はイスタンブールで「中村商店」の支配人としてトルコと日本との間での貿易事業を展開して以降、日本とイスタンブールを行き来しながら日土両国との繋がりを深めていき日本の民間大使と言われていました。
山田寅次郎氏はトルコ滞在中にアブデュルハミト2世からトルコ人から呼びやすいイスラム教徒名(ムスリラ)をつけてもらい「アブデュルハリル・ヤマダ・パシャ」と呼ばれるようになりました。
※「パシャ」は帝国では高級軍人・高官などに与えられる称号
山田寅次郎氏は日本とトルコとの友好関係を深く築いた人物であり、義捐金を届けたことでトルコの人々から尊敬される日本人として強く印象づけられました。
トプカプ宮殿に山田寅次郎がアブデュルハミト2世に献上した日本の太刀が展示されている
トルコのトプカプ宮殿に山田寅次郎氏がアブデュルハミト2世に献上されたという日本の甲冑や太刀が展示されています。以下の記事にまとめてみましたのでご覧頂けたらと思います。
山田寅次郎 明治の男子は、星の数ほど夢を見た。
オスマン帝国軍艦エルトゥールル号遭難事件の義捐金活動をきっかけに日本とトルコの友好の礎を築いた山田寅次郎。民間外交官、実業家、茶道家元、そしてオスマン帝国皇帝のアートディレクター。奇才希な男の生涯を実孫がひもとく。
著者の和多利月子(わたりつきこ)さんは山田寅次郎の孫で父から祖父(山田寅次郎)の冒険譚を聞くのが楽しみだったようです。
山田寅次郎の生涯を描いた書籍。
本日も最後までお読み頂きましてありがとうございました。